教恩寺の歴史
郷土、西足代は推古天皇の時代、聖徳太子が難波四天王寺創建の際、在所の村人達は人足として建立現場に駆けつけ、西の足代(足場)を受け持ちました。
それ以来、西足代村といわれるようになり、東の足場を受け持った村は東足代(現東大阪)になったと言い伝えられています。
また一説には周辺の湿地に生える菅草で編んだ笠を足代笠といい、この笠を多く産していた村落を足代村と称し、その位置により西足代と東足代の両村に呼び分けられたともいわれています。
教恩寺は江戸初期に河内国渋川郡西足代村と呼ばれていた頃、難波御堂、東本願寺派の道場として開基され、浄土真宗御開山、親鸞聖人の教え如来大悲の「恩徳」を報ずるため、教恩寺と名付けられました。
寺号と本尊阿弥陀如来尊像の木像は延宝5年(1677)2月5日に東本願寺第15代常如上人より賜ったものです。その後宝永4年(1707)10月4日諸国に大地震が起り、翌11月23日には富士山が大噴火し山腹に宝永山ができました。この大地震で教恩寺の本堂と庫裏は大きく傾き、そのため当時の大名、稲葉丹後守と大阪御奉行所、寺社方与力に口上書で修理を願い出て許され大修復工事を施したという経過があります。
当地は明治22年(1889)4月、町村制の施行により周辺の5ヶ村が合併し新しく巽村となり、西足代はその大字となっています。また、平成7年1月17日の阪神大震災で本堂などに大被害をうけ現在の本堂と山門などは門信徒の篤志により平成10年5月9日に新築、落慶をむかえ、御開山宗祖親鸞聖人の教えの法燈を300有余年にわたって守り続けることができ今に至っています。
第17世住職 釋 圓正 記
宗旨
- 本尊:阿弥陀如来
- 正依の教典
- 仏説無量寿経(大経)
- 仏説観無量寿経(観経)
- 仏説阿弥陀経(小経)
- 宗祖:親鸞聖人
- 宗祖の著:顕浄土真実教行証文類(教行信証)
- 宗派名:真宗大谷派
- 本山:真宗本廟(東本願寺)